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2018年04月の日記
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●2018年04月23日(月)


… 人のせいにすんな!/バイクが「今、ここに」を/執着・囚われの極み …
[最終更新 - 4/26 PM.4:35]



3月27日、人のせいにすんな!>

なんでも人のせい、周りのせい、
言い訳ばかりしてる母親のようになんて
なるもんか!あんな生き方したくない!

小学校中頃までの私は、
母親の愚痴を真に受けてたけど、
高学年にもなると、それらの愚痴の
ご都合良さも見えてきだした。

母親みたいな生き方なんて、するもんか!
その頃から、人のせいばかり、言い訳ばかり
しないよう、してきたつもりだったけど、

「反面教師も、また教師」というのなら…、
人のせいにする心のクセを、母親から
しっかり学習しちゃってるはず。



ここ数年、「あっ、私、人のせいにしてる…」って、
けっこう気づく。気づくのに、気づけたのに、
また、やってる。

人のせいにする方が、しんどいのに。
イラつくし、イラついたら不安でるし、
自分を誤魔化してるのが分かってる
から不快だし。

自分のせいでやっていく方が、楽なのに。
自分の人生、自分の世界の責任は自分で
引き受ける方が、ずっと楽なのに。

その方が、状況を変えていけるのに、
その方が、前に進めるのに、
その方が、自分で舵取りできるのに。

その方が、生きてるっていう気がするのに、
その幸せを放棄してどうする。
そもそも人は誰しも、
自分で自分の世界を創っていけるのに、
その力を手放す気か?



人のせいにして逃げてたら、
状況は何も変わらないのに。
同じことが、繰り返し起こってくるのに。
悪循環になってくのに。

人のせい、環境のせいにしてたら、
人に、環境に振り回されるのに。

なのに、束の間の「ウソの楽」につられて、
つい、してしまう。
わかってるのに、さぼって、
つい、してしまう。甘えてる。
それが、うまくいかない元凶!

だから、強迫も治んないんだよ!
治りたかったら、変われよ!
今を、どうするのかを
選び取っていくのは、
誰なんだ?



運命のせいにもしてるだろ。

こんな環境で育ったせいで、とか、
小5の時に集団無視されたせいで、とか、
一度、結婚したせいで、とか、

運命のせいにするのも、母親の18番。
そっくりじゃんかよ!
そんなの、もうやめ!
やめ!やめ!



3月27日、バイクが「今、ここに」を>

強迫になる前の私は、バイク、バイク、バイク、
バイクのとりこだった。

私の愛車“フェーザーFZ250”は、
「今、ここ」に生きてるって感じさせてくれた。

バイクで走ってるとき、私は、
「今、ここ」に生きていた。
「今」に集中してた。
「今」を感じてた。
生きてる、って気がしてた。

だから、どうしようもなく
バイクに惹かれ続けてきたんだろう。
ちゃんと、「今、ここ」に生きれてなかったから。



バイクを運転している時は、自分だけが頼り。

自分のすぐそばを取り巻く空間が、
辺りの景色が、すごいスピードで流れていく。
車と違って、世界との境界がない。
直に世界に接してる感じ。
自分を守ってくれる箱もない。

周りを頼ってたら、
周りに預けてたら、
周りのせいにしてたら、
自分の命は守れない。

もともと、車はバイクの動きなんて、
ほとんど見てないし。

バイクに乗り始めた頃、
太い道路の真ん中をバイクで走ると、
それまでの、大人が創った世界に
お邪魔してるって感覚なんかじゃなく、
ここは、自分たちの世界なんだー!
っていう気がした。

バイクに乗る前は、
太い道路の端っこを、まるで広い世界の端の方を
歩いてたり、自転車こいでたり、だったから。

バイクでまっすぐ、キィーーーンって飛ばすとき、
小型ジェット機で、超低空飛行をしてるような気分。
そして空気の抵抗が、私が「今、ここ」にいる
ってこと、改めて感じさせてくれる。
バイクでコーナーを曲がるリズム感もたまらない。
コーナーに合わせて刻む、自分のリズム。



誰かが運転する車の助手席で、
誰かに連れてってもらうんじゃなく、

自分の行きたい道をバイクでゆくことは、
私にとって、自分の生きたい道を自分でゆく
ことの象徴でもあった。

自分が感じ取る世界で、
自分で、自分が選んだ道を、
「今」を感じながら。



3月29日、執着・囚われの極み>

そういえば、完璧主義って、
「完璧にしないと気がすまない」クセって、
執着からきてる…よね。執着とイコール…かも。

執着は心を消耗させて、
エネルギーを奪ってしまう。
執着は苦しみを生む。

なのに、理性は心に反して、完璧を目指して、
心を強くコントロールし、自分に完璧を強いる。
執着を強いる。

執着=囚われ。両方とも、強迫そのもの。

ほとんど?全く?「あるがまま」に生きれてないから、
本来の自分で生きれてないから、
強迫になるんだろうけど、

強迫になってしまったら、

今度はまた、強迫が
「あるがまま」に生きることを強固に阻む。

更にまた、強迫が
ほとんど休みなく、さらなる完璧を要求してくる。
「完璧にせずには、いられない」くらいに。
そして完璧を求めるクセは、要らぬ執着は、
エスカレートしていく。

強迫は執着の極み。
強迫は囚われの極み。
強迫は「あるがまま」の対極。

なんて最低の生き方、しんどい生き方。
強迫につかまったままの人生なんて。
そんなの、生きてるって言えない。






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