カウント
2018年07月の日記
[HOME] [過去の日記] [前略プロフィール & 日記の索引] [管理モード]
●2018年07月26日(木)


… 獅子の途中/マインドフルネス …
… 不安の産物/やりすぎる …
[最終更新 - 2019/8/17 AM 6:31]




<6月1日、獅子の途中>

記録として、6月1日からの数日間、
感じたことを書いておきますだ。



私は今、きっと「獅子」の途中。
ニーチェのいう精神の成熟過程、
「駱駝」→「獅子」→「小児」に照らし合わせると。

最近、自分の中に入り込んだ親や世間の価値観から
自由になれない自分と闘ってる感があって、
主体性を取り戻すべく、「命令する龍」と闘う
「獅子」の実感がうれしかった。

「龍」は、初めは自分の外にいるけど、
社会に適応していく過程で、
自分の中にも「龍」ができてしまう。
その「龍」と闘うのだから、自分とも闘うってこと。

認めたくなかった自分の感情に、目を向けて自覚し、
知らんぷりしてた自分の感情に、目を向けて自覚し、
自分と闘えてる実感がうれしかった。



確かに「獅子」の段階。
自分の今いる場所が分かってうれしかった。
ずっと道標もなく、方角をしめす星もなかった。
1月頃から読み始めた本やブログのおかげで、
方向性が分かってうれしかった。

今「獅子」かと思ったら、
変化を感じはじめていたせいか、
なんか私は治るって確信が、なぜか出てきた。

数日後、それは、
一時的な単なる感情の高ぶりにすぎない、
まったくもって見当はずれな
自分の中での勝手な盛り上がりだったと気づいて、
自分で自分がとても恥ずかしかった。

ほんとは、すごく消したい。
だけど、私の「みっともなさ」の
記録として残しておこうと思って、消すのをやめた。
あー、だけどやっぱり消したい。

でも、そのときは、
「獅子」を経た「小児」を目指して、
本来の自分に戻ることを目指して、
「今、ここ」に生きることを目指して、
自分と闘ってる感が、
生きてるって感じがしてうれしかった。



<6月14日、マインドフルネス>

目指す「心の在り方」で居られるようになるためには、
単に心がけるだけじゃ、たぶん難しい。
かといって、強迫で行動が極端に制限されているから、
自由にいろんな方法を探して試してまわったり、
いろんな場で経験をして学んだり、
っていうのも難しい。

どうしたら…って思ってたら、
とうとう、私もマインドフルネスに出会えた。
他の人より、とぉーっても遅れて、6月5日に。
しかも、まだTVとネットでかじっただけという…。



マインドフルネスって「今、ここ」にいるための
トレーニングでもあるよね。
過去や未来に向きがちな心や思考を
「今」に戻して、「今」に集中して、
「今、ここ」に生きるための。

たとえば、自分が今、感じている
体の感覚だけに、意識を研ぎ澄ませ、
その感覚を受容することによって。



強迫って、大丈夫って確認しても
なかなか不安が消えてくれないから、
自分の「大丈夫」っていう感覚に、
確信が持てなくなってしまう。

今は、昔に比べたら、
ずっと不安が消えやすくなってるから、
その点は助かってるんだけど、

でも、自分の感覚への疑いから、
自分の行動を逐一、見張っている私が居る。
今は、いつもじゃないけど。

昔よりマシとはいえ、
そんなこと、日常茶飯にやってたら、
「あなたを信用してません」っていうメッセージを
私から私へ、私の行動を通じて
送り続けてることになる。

強迫行為に明け暮れる日常は、
自分の「大丈夫っていう感覚」を疑う行動の繰り返し。
自分の「大丈夫っていう記憶」を疑う行動の繰り返し。

そんなことしてたら、
せっかく、心が変化しようとしても、
その芽を摘むことになってしまう。



<6月25日、不安の産物>

そうだよ。
私は、疑いの中で育ってきたんだ。
疑われながら、育ってきたんだ。
「本当に大丈夫か?」
「本当か?本当か?本当に?」

私は「大丈夫」って自信あるのに、
それを信用してもらえず、
「本当に?」「本当に?」って親が迫ってくる。

親にしたら悪気はなかったんだろうけど、
でも、繰り返し迫られるその感じは、
強迫の不安の迫り方にそっくり。



信頼されてこなかったんだ。
厳しい目で、ちゃんとしてるか見張られながら、
親や祖母の価値観で裁かれながら、育ってきたんだ。
「見守られ」ではなく「見張られて」。

父親の「ワシは正しい」、祖母の「ワシは正しい」
を押しつけられて、育ってきたんだ。
母親の愚痴を真に受けて、育ってきたんだ。
母親の不安も、父親の不安も、私に伝染してたんだ。

それらをみんな、小さい頃から吸収してる。
そして今度は、いつの間にか、私が私にやってる。



「受け入れる」がない家族だった。
家族の中に、不安が根を張っていたからだ。
しかも、そのせいで、各々をお互いを
信頼できてなかった。

信頼で結ばれてない家族。
そんな家族の中で育ったから、
不安に支配されて、自分で自分を信用できない
強迫になったんだ。

10年くらい前まで、
私は家族という集団が大嫌いだった。
それは、私を束縛し、
私は私でいさせてくれない集団だった。

疑い、不信、批判的、否定的、
許さない、完璧を要求、
存在を信頼しない、ジャッジして裁く、
そしてコントロール。

それらはみんな、家族内の不安の産物。
そして、強迫そのもの。強迫の症状と
全部どんぴしゃ。



心の奥底では、本当は知っている。
強迫の不安はウソの不安だと。
不安が強すぎて、それが見えにくくなっているんだと。

もしかして、同じように心の奥底では知っている?
自分は信頼に足る存在だと。
信頼できないという思い込みが強すぎて、
わからなくなっているだけだと。

でも、強迫行為をするたびに、
「私は信頼できない」っていうメッセージを
私から私に送っているのと同じ。



<6月29日、やりすぎる>

やりすぎる。考えすぎる。こだわりすぎる。
頑張りすぎる。我慢しすぎる。コントロールしすぎる。
責めすぎる。責任感つよすぎる。
後悔しすぎる。心配しすぎる。くよくよしすぎる。
きっちりしすぎる。慎重すぎる。力みすぎる。

すぎる、すぎる、すぎる。
何で?って、幼い頃からのことを思い返してみて、
一番わかりやすかったのがこれ。
まずは、このことについて。



----内↓は、2004/01/14の日記より抜粋

----------------------------------------------
幼い頃から、ずっと忘れられない祖母の言葉がある。

幼い頃、初めて自分で髪を洗って
お風呂から出てきたとき、
祖母が、私の方をよく見もせずに
「ほぅ〜ら、石けんつけたまま上がってきよったー」って、
真っ先に大声で言った。遠くからね。

遠くからだから、髪を洗った石けんを、
ちゃんとすすげたかどうかなんて、分かるわけないの。
それなのに、確かめもせずに、最初っから疑って、
決めつけてかかられたから、悲しかった。

お風呂に入る前に
「ちゃんとすすぎなさい」って、しつこく言われたから、
自分では、よぉく、よぉく、すすいだつもりだもの。
初挑戦した幼い子に、結果も見ないうちから、
そんな言い方、普通しないぞ…。

それ以後、私は、しつこいくらい、
シャンプーをすすぐようになった。
もう充分と思っても、
しつこく、しつこく、まだ何回もすすいだ。
シャンプーが、ちゃんとすすげたかどうか、不安で。
すすぎ湯に泡が全然なくなっても、まだ不安で。
強迫になる前から。幼い頃から。
----------------------------------------------



2月の日記みたいに、吐き出してみる。
好き放題、勝手放題。私のために。

しつこく、シャンプーをすすぐクセ。
小1くらいから、つい数年前まで、
ずっと続いてた。

私は、あなたと約束したから、
ちゃんと、よぉーくすすいだんだ。
わぁーい、一人でできたよって
お風呂からあがってきたんだ。

一人でできたよ、ちゃんと約束も守ったよ、
っていう小さな達成感と一緒に。

それなのに、なに、あの言葉は。
さては、あなたは初めから信じてなかったな。
できる訳ないって決めつけて。
そう思ってるんなら、初めから約束すんな!
約束したのなら、信用しろ。
たとえ相手が子どもでも。
そのくらいの心も持てなかったのか?
いい年した大人が。
子どもだと思って馬鹿にすんな!

子どもにとって、約束って大切なんだ。
そんなことも分からないあなたより、
孫を信用できないあなたより、
最初から疑ってかかるあなたより、
約束守ってあなたを信用した
小さな子どもの私の方が、よっぽど大人だ!

あなたの気性は嫌いじゃない。
ストレートできつい。いいじゃない。
その代わり、そのストレートで
きつい発言に責任もてよ。
それが、ストレートに物を言う
人間の最低の礼儀だ!



祖母に対して、ここまで
言いたいことを言葉にしたのは初めてだ。
これまで、口にしたことはもちろん、
意識化したことさえ、なかった。

…なんか祖母にしたら、
冗談のつもりだったのかな、
っていう気が初めてした。ヘタクソな冗談。

子どもの頃、母親からあなたの悪口を
たんまり聞かされてきたけど、
私は、あなたの凛としたとこは
前から好きだった。



強迫が、今の私にとって一番の「龍」か?
私の主体性を奪う「龍」。
私に命令し、支配し、服従を強いる「龍」。

大人たちから私に入り込んだ「龍」。
不安から生まれた「疑う」という「龍」。
そして、定着し成長した「龍」が
強迫という「超龍」に。



たぶん、私はすでに知っている?
私は私が好きだと?
私は私を認めていると?
私は私を根本では認めていると?

強迫という「龍」は、ただの反応。
本心じゃない。









← まぼろしの欠片 Top Page


WebDiary CGI-LAND