カウント
2018年05月の日記
[HOME] [過去の日記] [前略プロフィール & 日記の索引] [管理モード]
●2018年05月22日(火)


… 自己嫌悪に至る刷り込み/他人の評価 …
… 親を選んで生まれてきた?/メメント・モリ/どちらも「ナイーブ」 …
[最終更新 - 6/22 PM.3:05 ]



4月11日、自己嫌悪に至る刷り込み>

おそれていたのは、人から嫌われること。

「きっと、おばあちゃんに似て、気ぃきつい子なんや」
「おとうちゃんに似て、わがままで自分勝手な子や」
「ちっちゃい頃、泣き虫の妹をすぐに泣かせてた」
「ちっちゃい頃から、あんたはそんな意地悪な子やった」

元農家の封建的な家風の中、
祖母や父親からいつも見下され、こき使われてきた
母親のうっぷんの身近な吐け口は、私だった。
ほとんどいつも不機嫌な母親から、毎日のように
なにかしら小言を聞かされていた。
小学1年くらいからかな。

とにかく、物心ついた頃にはすでに、母親には
些細なことで、怒られていたような気がする。
もちろん、母親が怒るのは子どもにだけ。

母親は、祖母には決して、はむかわなかった。
母親は祖母の機嫌を損ねないよう、
いつもいつも気を使っていた。
父親に文句を言う母親も、
滅多に見たことなかった。

母親は、本当に怒りたい相手には怒れずに、
私を身代りにしていた。そうでもしないと、
きっと心が保たなかったんだろう。

…おばあちゃんみたいに、気ぃきついって?
…おとうちゃんのように、すごいわがままだって?
自分ではそうは思えなかった。
…妹を泣かせてばかりで、意地悪だったって?
自分では覚えていなかった、小さすぎる頃の話で。

「そんなことないもん」
「そんなことないと思うけど」
私は、母親の言葉を鵜呑みにしてないつもりだった。
否定してたつもりだった。否定できてると思ってた。
少なくとも、自分が意識できる範囲では。

だけど、本当は違ってた。ぜんぜん違ってた。
それらの言葉は、私の中にしっかり刷り込まれていた。
私が思っていた以上に、ずっとずっとずっと。
知らないうちに、心深くに。



…もしかしたら、私は、気がきつい子なのかも?
…もしかしたら、私は、わがままな子なのかも?
…もしかしたら、私は、意地悪な子なのかも?

「おばあちゃんに似て」「おとうちゃんに似て」
っていうのは、私にとって「人に嫌われる」
ということを意味していた。
祖母のきつさ、父親のわがままを、
子どもの私でも、嫌だと思っていたから。

私の中には、いつの間にか、
「人から嫌われたくない」
「本当の私は嫌な奴かもしれない」という
不安が、しっかり根づいてしまっていた。
その根強さに、自分では気づいていなかった。



でも、よく考えてみたら、
もう一度、振り返ってみたら、
「本当の私は嫌な奴かもしれない」
という不安が、私の中にもともとあったから、

小学5年で集団無視されたとき、一発で反応して、
あんなに頑なに、思い込むことになったのだ。
「本当の私は嫌な奴に違いない」って。

そして、自分の自然な感情、自然な想い、
すなわち、自分の本心をおし込め、人から隠して、
人から好かれる自分、人を基準とする自分へと、
自分をつくり変えようとした。
意識して、自分を否定しだした。

無視されたときの
「ひとりぼっち」に懲りた私は、それ以後、
人から嫌われることを、更におそれるようになった。
人からどう思われるかを、更に気にするようになった。



それは、高校を卒業した頃に、
自分をおし殺すことはもうやめようと
決心した後も続いていた。大人になっても、延々と。

そして、いつも心のどこかで、
人の評価を気にしている自分が嫌だった。
相手の評価を気にしながら、
人と接している自分が嫌だった。
でも、気づいていても手に負えず、
どうしてもやめられなかった。

自分のどこが嫌い…って、
自己評価が低くて、自分に自信をもてず、
代わりに、他人の評価に頼る自分が一番嫌いだった。



小学3〜4年から?
なんとなく自分が嫌いって感じてたけど、普段は
気に留めてなかったか、気を向けないようにしてたか、
どっちかはわかんない。

そんなベースがあったから、
小学5年で集団無視されたとき、
本当の私は嫌な奴に違いないって思い込んだ。

いじめてる皆の方を悪者にせずに、
私は、私の方を悪者にしてしまった。

自分を出してはいけない。
きっと私が悪いんだから、出したら嫌われる。
隠さなくちゃ。でも、どこを?どこが悪い?
わかんないから、…全部。

そして、そのままの自分を
出さないようにって一生懸命になった。
皆から好かれる自分をめざして、
意識して、本来の自分を否定しだした。

とにかく、人から嫌われたくなかった。
自分で自分を好きになれなかったから、
人からも嫌われたら、やっていけなかったのだ。

大人になってからだって。



4月13日、他人の評価>

子どもの頃、自分を評価する基準が他人にあった。
もちろん、私の全てについてじゃない。
でも、「自分のここが好き」「ここが嫌い」
それを決める基準は、他人の評価にあった。
気づいてなかったけど。



まず、「親という他人の評価」を
知らぬ間に、自分の中に取り込んでいた。

一番覚えているのは、
小学生になってからの、母親の
祖母や父親に言えないうっぷん晴らしを
兼ねた小言。日常茶飯事の小言。

祖母に「似て、気がきつい」だの、
父親に「似て、わがまま」だの、
幼い頃、妹を泣かせて「いじわるだった」だの、

あまりにも繰り返し言われすぎて、自分では
「そんなことない」って思ってた親の評価まで、
いつの間にか、すり込まれていた。

親からの評価は低く感じることが多かったので、
自分から自分に対する評価も低く、
なんとなく自分が嫌いだった。



また、先生に家庭訪問で言われたり、
通信簿に書かれた私の性質のうち、
すなわち、先生が私に貼ったレッテルのうち、
内向的、真面目、几帳面が嫌だった。

今から思うと?な「内向的」は、
先生が劣った性質として評価したから、
自分でも嫌だった。ものすごい欠点だと思ってた。
「先生という他人の評価」によって。

また、「内向的」は、
存在感が薄そうだから嫌だった。
私が居ても居なくても同じ?が嫌だった。
もちろん、私にとっては同じじゃないんだけど、
他人にとって同じ、なのなら嫌だった。
ここでも、「他人からみて」だ。

そして、「内向的、真面目、几帳面」は、
クラスのみんなからの評価が低そうだから嫌だった。
それって、おもしろくない性質だから。
よその子の目からみて。またもや、
「みんなという他人の評価によって」だ。

振り返ってみたら、みーんな他人の評価。
自分の中に入り込んだ他人にどう思われるかで、
自分のそれぞれの性質の好き嫌いや
価値が決まってしまっていた。
たぶん、他の子より、その傾向が強かった。
自分で自分に、OKを出せてなかったから。



子どもの頃から、母親みたく、
世間体を気にするのは馬鹿らしい、
世間体からは自由になれてる、って思ってた。

その頃から、一般常識にはこだわってなかったし、
むしろ、疑問を感じることが多かった。
大手を振ってる価値観でも
ヘンだと思ったら、クソくらえだったし、
少数派の価値観でも、正しいと思えば
自分の考えにとり入れてた。

だから、世間体でも、そうなれてると思ってた。
でも、なれてなかった。
こと、自分の性質に限っては。
気づいたとき、ちょっとショックだった。

世間体を気にするっていうのは、
他人にどう思われるかを、他人の評価を
気にするってことだもんね。
世間体にもいろいろあるけど、たぶん
自分の性質に関してだけ、ばっちり気にしてた。



小学3〜4年頃から?
なんとなく自分が嫌いだったけど、
「私からみて」私は嫌な奴だとは、思ってなかった。

なのに、いつの間にか、もしかしたら、
私は本当は嫌な奴「かもしれない」っていう
不安が巣くうようになっていた。

そして、小学5年で集団無視されたとき、
私は本当は嫌な奴に「違いない」に変わってしまった。
どこが悪いのか、自分ではわからなくても、
とにかく、「人からみて」嫌な奴、
「本当は」嫌な奴に違いない、って思い込んだ。

そして、この小学校5年から
意識して「他人の評価=嫌われる・好かれる」
を気にするようになり、

自分からすすんで、他人の評価に合わせて
自分の本心を抑圧し、人に好かれる自分へと、
自分をつくり変えようとした。

それを8年間も、
いきすぎたことを8年間も、やり続けてしまった。

それまで「意識してまで」は
他人の評価を気にしてなかったし、
「意識してまで」は自分を否定してなかったのに。



小学5年以降、
人から嫌われることを
極度におそれるようになった私は、
中学1年くらいから?

「私は、あなたに敵意なんて、
全然もってないからね。嫌わないでね」って、

アピールするための笑顔、
好意を表す笑顔、お願いする笑顔を
しながら、人と接するようになっていた。

はじめのうちは、意識してやってたけど、
そのうち、「それが、私」みたいになっていた。
しっかり、身に染みついていた。
中学、高校、大学と。

今から思うと、
それは満面のあふれる笑みなのに、
どこか控えめな感じのする笑顔だった。



高校を卒業した頃、
いきすぎた自己否定の愚かさに気づいて、
もうやめようと、決心した。
でも、やめたつもりが、
長年のクセでやめられていなかった。
無意識のうちに続いていた。

だから、大学生になって心機一転したものの、
やはり「自分自身」に自信がなくて、
どんなふうに自然に自分を出して
人と接したらいいのか、わからなくなっていた。

世間一般の常識の中のウソを
かぎわける「自分の感覚や考え」には自信をもてたのに、
「自分という存在」には自信をもてなかった。

それで、2回生になったとき、
サークルを変えることにした。
自分が求めていた雰囲気のサークルを探した。
ここなら、いい感じの人間関係が学べそう
っていうサークルに入り直した。

そして、そのサークルのみんなの
感情の出し方、会話の仕方、間のとり方、
どんな表情で、どんな言葉使いで、どんな呼吸で…、
できる限り、学習して吸収させてもらった。

また、そこで出会った友人の一人は、
入部してすぐの私が、まだどんな奴かも
わからないうちから、彼女の悩みを
打ち明けてくれた。無条件の信頼を
生まれて初めて?感じたような気がした。

他にもたくさん、そのサークルのみんなから
大切なものをもらった。

それから、奨学金はすべて
家族の生活費や借金の返済にあてていたので、
自分で要る分はバイトで賄っていた。
いろんなバイトをした。

働くことは、とても楽しかった。バイト先では私は
「居ても居なくても同じ、ではなかった」から。
人にとってだけじゃなく、「自分にとって」。
私はここに居てもいいんだーって思えた。
もちろん、私でなくても出来る仕事。
でも、それでも。

大学生になってから、
心は少しずつ自由になっていったけど、
「自分自身に自信がない、好きになれない」は
身をひそめ、依然として私の中に居座っていた。



社会人になって、どんな自分が
一番嫌だったかといえば、それは、

自己評価が低くて、
自分で自分を受け入れられず、
代わりに、他人に認めてもらいたくて、好かれたくて、
心のどこかで、他人の評価を気にしている自分。

そんな自分に、うすうす気づいていて、
嫌なのに、不快なのに、やめられず、
相手の評価を気にしながら、人と接している自分。

相手に好印象をもってもらえたか、
あとで振り返ってしまう自分…とか、
人として一目おかれたいと思う自分…とか、
話す言葉のうらに「ほめてほしい」や
「認めてほしい」が入ってしまう自分…とか、

ぜーんぶ、
「他人の評価を気にすることから、抜け出せない自分」



子どもの頃から、家の中の空気や
世の中のおかしいとこを感じ取るアンテナの感度は
良い方だったと思う。

だから、周りとは違った自分なりの考えも
もっていて、その考えに自信もあった。
成長するにつれて、人と違う考え方に
ちょっとした誇りも感じていた。

でも、大人になっても
根本のとこで、自分にOKを出せてなかった。
自分の存在にOKを。

子どもの頃からの自己否定が、尾を引いていた。
そのままの自分を受け入れ、認め、信じることが
できてなかった。どこか嫌いなままだった。

だから、他人の承認を、評価を
気にせずにはいられなかった。

「他人の目に映る私」は、私じゃないのに、
そんなことを気にして、
本当は何の足しにもならないことを気にして、
本来の私で、生きれていなかった。



私が子どもの頃から、
ずっと、何を求め続けていたのか、
強迫になってから、はっきり気がついた。

私は、「私が好き」っていう感覚を
私の心の内側から、感じ取りたかった。

「私はここに居てもいいんだ」っていう感覚を
私の心の内側から、感じ取りたかった。

「私に対する信頼と安心感」を
私の心の内側から、感じ取りたかった。

他人からではなく、「私の心の内側の世界から」。
それが、子どもの頃からの
私の本当の願いだった。切実な。



4月18日、親を選んで生まれてきた?>

3年くらい前に読んだ、『前世療法』。
強迫の症状だったかな?に悩む、キャサリンの
生まれ変わりの記憶を記した有名な本。

催眠時にしか、出てこない記憶なんだけど、
私には、キャサリンが語った記憶が
どうしても、作り話には思えなかった。

催眠療法を行った医師にも、誠実さが感じられた。
キャサリンの話は、その医師の常識を根底から覆した。
でも、悩んだ末に事実としか考えようがない、
との結論に達した医師が書いた本の内容にも、
作り事はないように思えた。

それから後も、その関連の話をチラチラ聞いたり、
みかけてたから、こんな説↓も
知ってはいたんだけど、



『かみさまとのやくそく』の紹介で、
胎内記憶のある子ども達の証言をもとに

「どの子もお母さんを選んで来た」
「みーんな自分の意志で生まれてきた」
っていう言葉を目にした一昨日、

自分の心の中に、なにかストーンときて、
ほっとしたっていうか、なんていうか…。
「自分で選んでここに来たんだから、しゃーないや」
「自分で選んだんだから、自分の責任」
って、自然に思えた。

ときどき、揺らいじゃうしぃ、
一時的な気分かもしれないんだけど、でも、
「だって、自分で選んだんだろ」
って思った方が、楽ですだ。



4月25日、メメント・モリ>

小学3〜4年くらいだと思う。
私はなぜか時々、自分が死ぬ瞬間の感覚を
想像してみるようになった。

それは、自分の足元が
闇の中にコマ送りで崩れ落ちていき、
自分も奈落の底へ落ちてしまいそうな感覚、
真っ暗な「無」に呑み込まれてしまいそうな感覚で、

考えるたびに、身震いするほど、
寒気がするほど、こわかった。
なのに、なぜか時おり考えては、震えていた。



その頃から、自分が死んだ後の
自分の意識が存在しない世界のことも
時々、想像してみるようになった。

自分が生まれる前の
無限の彼方から流れくる永い時間…
自分の意識が存在しなかった、その同じ状態に
戻るだけなのに、

自分が死んだ後、自分の意識が存在しない世界が、
未来永劫、怖ろしいほど延々と続いていく。
そのことを考えると、とてもこわかった。

なのに、自分の意識が消えた後の世界を、
自分が無に帰した感覚を、想像しては震えていた。



自分が無に帰す感覚、無に帰した感覚、
それらを一番よく考えたのは、
小学3〜6年頃かなぁ。
だんだん、回数は減っていったけど、
中3?高3?ぐらいまで、たまに考えてた。

自分の死の感覚を
子どもの想像の範囲で、考えだした頃、
私は、死をとてもとてもこわく感じたので、
「死ぬことを思ったら何でもできる」
「自殺なんか絶対にしない」
って思っていた。

そして何度も、自分に死の感覚を想像させるのは、
自分が他人よりも極端に、死をおそれている
からだと思っていた。



でも、それだけじゃなかった。
今日、なぜ、小学生だった私が何度も、
自分が死ぬ瞬間の感覚や、自分が無に帰した後の感覚に、
わざと想いをおよばせて、震えていたのか、
その訳が分かった。

死を想うことは、同時に生を想うこと。
私はきっと、メメント・モリをしていたのだ。

自分が死ぬ感覚、
無に帰す感覚を想像することによって、
自分の「生」の感覚を確認しようとしていたのだ。
自分が生きているっていうことを
感じようとしていたのだ。

イキイキと生きれていない、子どもだったから。
遊んでても、楽しいけど楽しくなかったから。
両親や祖母をみてて、大人になっても
つまらない世界が待っていると思っていたから。

その小学3〜4年っていうのは、ちょうど、
父親が多額の馬鹿な借金をして、
ただでさえ、不機嫌にピーンと張りつめていた、
家の中の空気が、怒りや緊迫感を増し、
更に張りつめていった頃だった。

そして、私に軽い強迫傾向が出はじめた頃、
すなわち、私の心がSOSのサインを
出しはじめた頃だったのだ。
自分の本来の「生」を生きたいよう、という。



4月29日、どちらも「ナイーブ」>

子どもの頃から「神経質であかん」って、
しょっちゅう言われてきた。

私も、子どもの頃や学生の頃、
「神経質を直さなくちゃ」って、思ってきた。
欠点だと思ってたし、自分でも神経質は
うっとうしかったし。

私の中で「神経質」のイメージが悪すぎて?
「神経質」と「感性・感受性」は
別物だと思ってたんだけど、

本を読んでいて、そう言われれば
「神経質」と「感性・感受性」は、もともと
同じとこからきている性質だ、ってことに気がついた。

妹に「どう思う?」って聞いてみたら、
「英語で言えば、両方ともナイーブ」だって。

なぁんだ、神経質でもよかったんだー。
感性・感受性が他の人よりもあるみたいって、
大人になってから気づいたんだけど、
それって、私らしさだと思うから。

まぁ、感性・感受性が鈍かったら、
たぶん強迫になってないから、
諸手あげてバンザイって、
訳でもないけど。

大人になってから、
ほとんど気に留めてなかったとはいえ、
自分は神経質だと思ってたし、
神経質って、うれしくなかった。

でも、神経質を無理に抑え込んでも、
神経質でなくなる訳でもないし、
感性・感受性まで鈍らすだけ。
私じゃなくなっちゃう。

うっとうしくたって、神経質でも、もうかまわないや。
今ある感性・感受性はなくしたくない。もっと磨きたい。
私が、より私らしく在るために。

強迫に人生をとられた私には、それしかないから。






← まぼろしの欠片 Top Page


WebDiary CGI-LAND