カウント
2006年03月の日記
[HOME] [過去の日記] [前略プロフィール & 日記の索引] [管理モード]
●2006年03月22日(水)


… まぼろしの欠片 …


私は、私に対して、本当に心を許せるようになりたいな。
意識下の私にも、無意識の領域の私にも、心を許せるようになりたいな。

私の中の 癒されない小さな子も、
私に対して 心を許せるようになってほしいな。
その子が一番心を許したい相手は、親じゃなく、私自身だもの。
なのに、私に心を許せなくて、ずっと さみしい思いをしてきたんだもの。

その子が、私に対して 心を許せるように、
その子を いたわってあげて、大切にしてあげて、認めてあげて、
分かってあげて、感謝して、…いっぱい いっぱい 安心させてあげたいな。

PM.11:03

← まぼろしの欠片 Top Page

●2006年03月20日(月)


… 最終更新 - 3/22 PM. 10:18 …


…心の中は、この1月から、すごいスピードで変化してるのに、
…なかなか、症状の方には反映されないぁ…。
…強迫になって半年の頃は、心が大きく変化したら、
…症状のひとつが、一瞬で消えてくれたのになぁ。

…なにが悪いのかなぁ。 寒すぎるからかなぁ。
…症状の関係で、一番寒い時間帯に 寒い場所で 寒いことしてるし。
…それに、長年、体を冷やしてるし。 長年、ちゃんと寝れてないし。

…長い間、強迫で無理してて、体も やられちゃってるからかなぁ。
…一瞬で症状のひとつが消えた頃は、まだ体力あったもんなぁ。
…あの頃から 10年以上経つんだもんなぁ。 年くったもんなぁ。

…あたたかくなったら、ちょっとは症状がマシになるかな…。
…いえ、寒さが緩んできても、たいしてマシになってくれない。
…おまけに、体も すごくしんどいまま。

…心の中は、こんなに変化したのに、
…私の歌声、心を映す歌声だって、心の変化を告げてくれてるのに、
…これでダメなら、私は、もうどうしていいのか分かんないよぅ。

って思ってたけど、



こないだ来てくれた、ちょっとしたルンルンは、
少しずつだけど、治る方向に向かってるんだよって、
変化の片鱗を実感させてくれた。

やっぱり、
私の中の 意識していない私や、私の体は、
私の努力に ちゃんと応えてくれてて、ちゃんと頑張ってくれてて、
できる速さで ちゃんと変化してくれてたんだね。

変化には、その人や状況に応じた速さがあるもんね。
私の心も体も、厳しい環境の中で 精一杯やってくれてるのに、
それを、もっと速く速く…って思うのは、

たとえば、すでに良い子なのに、
親が 「もっと良い子に、もっと良い子に」 って望むようなもんだよね。

たとえば、その子のペースで 出かける支度や 片づけをしてるのに、
その子に合った速さで 精一杯やってるのに、
やってるうちに、自然に 速くできるようになるのに、
親が 「もっと速くしなさい、もっと速く、もっと速く」 って、
無理に 急かしてるようなもんだよね。



もっともっと…って、親から言われて育って、
大人になったら、今度は自分で自分に、もっともっと…って、
望むようになっちゃって、それが病気の一因なんだから、

これ以上、もっともっと…なんて、もう自分に要求したくない。
親がした同じことを、もう自分に繰り返したくない。

私の心と体は、ちゃんとベストを尽くしてくれてるのに、
それなのに、もっともっと…なんて自分に要求するのは、
自分の心と体の頑張りを 認めてないってこと。

自分を信頼してないのと同じ。 肯定してないのと同じ。
それって、治るのを邪魔してるようなもん。



私の心と体は、ちゃんとベストを尽くしてくれてるんだから、
もっともっと…なんて望んだり、悩む暇があったら、
私は、私のできることをして、私の心と体の頑張りに応えないとね。

自分に 「ありがとう」 って、自分をいたわり、認め、肯定し、
自分と向き合い、その中からヒントを見つけ、自分を認め、肯定し、
ぜんぶ肯定しきれなくても、肯定しきれない自分を許し、
一時しのぎでもいいから、なるべく体を冷やさないようにし、
少しの不安を持ちこたえながら進み…、

私は、私ができることを考え、行動し、
あとは、私の心と体がやってくれてることを
信じて 認めて 任せていれば、いいんだよね。

PM.11:22

●2006年03月19日(日)


… 最終更新 - 3/20 PM. 10:35 …


ちょっとルンルンしたような、なんか楽しいような気分が来てくれたとき、
いつもと同じように強迫絡みの用事をしてても、なんか違ってた。
なんか世界が違ってた。 世界に対する私の感じ方が違ってた。

いつもの世界から いっときでも、ほんの少し離れられたから、
いつもと同じ世界なんだけど、いつもと同じじゃなかったから、
心と体を 休ませてもらえたんだよね。

いつもと同じ、しんどい強迫行為をしてたんだけど、嫌だったけど、
その嫌さの程度が、微妙に 微妙に 微妙〜に、
ちょっとしたルンルンのおかげで マシだったのかなぁ。
生きてることが、嫌じゃなかったもんなぁ。



ちょっとしたルンルンが来てくれた日の夕方も、
症状がある程度マシになるか、しぬかどちらかにしてくれって
自分に 泣きながら頼んでたんだけど、

そしたら、症状は まだマシになれなくても、
ちょっとしたルンルンが来てくれて、心と体を休ませてもらえた。

自分に頼んだからって、普通はなかなか そうはいかないけど、
時が熟してたり、条件が揃ってたりしてれば…、
普段から 自分に 「ありがとう」 って、自分をいたわり 肯定したり、
普段から 自分と向き合って、自分を認めようとしていれば…、

私の中の 意識していない私も、
私のお願いに、できる範囲で応えてくれるんだね。
私の中の 意識していない私も、頑張ってくれてるんだなって思った。
私のことを ちゃんと考えて、いつも精一杯やってくれてるんだなって。

私の中の 意識していない私を、信じるっていうか、
私に対して安心するというか、信頼して任せられるというか、
私は ちゃんとやってくれてるから、大丈夫だよ…っていうような、
なんかそんな気持ちが出てきた。

私は、子どもの頃から
「自分を信じる」っていうのが、どういうことなのか、
よく分からなかったんだけど、きっと、そういうことなんだね。

PM.11:31

●2006年03月17日(金)


… 最終更新 - 3/19 PM. 10:29 …


ちょうど、にゃんこが機嫌良く、喉をゴロゴロ鳴らすような 感じかなぁ。
ちょっとルンルンしたような、なんか楽しいような気分、
生きてるのが嫌じゃない気分、生きてること自体を嬉しいと感じる気分、

昨夜の夜中〜未明、そんな気分を
3〜4ヶ月ぶりに数時間、やっと感じることができた。
別に楽しいことをしてた訳じゃなくて、お風呂での強迫用事と
その後の強迫用事をしてただけなんだけど。 それでも感じられた。



2月下旬〜3月に、そんな感覚を2回ほど、十数秒間だけ感じたけど、
それ以外は、去年の12月頃から、そんな感覚は皆無だった。
とにかく、心も体も、しんどくてしんどくて、
生きてるのが苦痛の連続で、
毎日、這うような気分で ひたすらひたすら…って感じ。

不安や寂しさをなだめ、安心させようと、
日に 80〜100回くらい、自分に 「ありがとうね」 を繰り返し…、
少しでも治りたい一心で、自分のことを振り返って
日記に 少しずつ書き続け…、← まだ途中 o(- -;o

その他は、ほとんど強迫行為の連続だった。
まるで、強迫行為をするために 生きてるみたい。
苦しむために 生きてるみたい。

「ありがとう」 と、自分のことを 再び振り返ったおかげで、
心の中は、すごいスピードで変化してたけど、
症状は、全然、それに追いつけてなかった。
体が、しんどすぎたからかな…。

寒さが緩んできても、疲れ切っていて、
ずっとずっと疲れ切っていて…、だから、昨日の夜の7時頃も、
症状がマシになるか、しぬかどっちかにしてくれ…って、
自分に頼んでた。 もう、私の体も悲鳴を上げてるから…って泣いてた。

だけど、その夜の夜中の3時頃から、
なぜか、にゃんこのゴロゴロ鳴らし気分が戻ってきてくれて、
数時間も続いてくれた。 ありがとうね。 (*- -)人



去年の12月頃から、生きてるのが 全然楽しくなかった。
笑う一瞬や 楽しい一瞬が、全くなかった訳じゃない。
でも、笑ったり 楽しいと思った次の瞬間には、
その感覚がしぼんで、さみしさや むなしさに変わってしまってた。

持続しなかった。 楽しい余韻が残らなかった。
だから、生きてるのが、楽しくない楽しくない楽しくない…だった。

何でもいいから 少しでも楽しめないと、
病気も治らないよぅ…って思っても、
楽しみたいと思っても、どうしてもできなかった。

そして、とにかく休みたくて休みたくて…。 強迫って休みなしだから。
でも、何時間も強迫用事をしないと、布団で寝れないし、
強迫用事に時間かかるから、充分な時間寝れないし。

私か休めるのは、症状がある程度軽くなるか、しぬときかなぁ、
って思ってたんだけど、昨夜は、ちょっとしたルンルンが
戻ってきてくれて、心と体を休ませてもらえた。
ありがとうね。 (*- -)人

よく考えたら、症状が 一時的にでも少しマシになったから、
ちょっとしたルンルンが 来てくれた訳だけど、

そんなふうに、症状が 持続的にマシにならなくても、
一時的な ちょっとしたルンルンでも、
心も体も休めるんだね。

PM.11:50

●2006年03月16日(木)


… まぼろしの欠片 …


公園の砂場で拾った 小さな欠けた貝殻、
安物のプラスチックに 安っぽい色を塗った 3〜5oの小玉たち、
綺麗な模様のおはじき、綺麗な色の小石、
誰にもらったのか ボール紙に布を貼って作った扇形の小箱…、

私の子どもの頃の宝物は、そんな自分で集めた小物たちだった。
子どもの私は、それらを大切に大切に オルゴールの中に入れて、
時々眺めては、楽しんだり、想いにふけったりしていた。

いえ…、今でも宝物。
強迫になって、その宝物は見れなくなったけど、
それまでは、大人になっても、たまにオルゴールを開けてた。



私の子どもの頃からの宝物は、
他の人にとったら…、大人にとっても、子どもにとっても、
意味のない、役に立たない、どーでもいいモノだろう。

でも、私にとっては宝物。
私が、それに価値を見出す限り、私にとっては宝物。
誰がなんと言おうと、誰もそれらに価値を見出さなくても、
私が価値を見出す限り、宝物。

それは、私自身についても、きっと言える…。

他の誰も、私に価値を見出さなかったとしても、
私が、私自身に価値を見出したなら、私は私の宝物になる。
だって…、子どもの頃からの宝物のことを 思い出してごらん…。

PM.11:19

●2006年03月15日(水)


… 最終更新 - 3/16 PM. 10:44 …


この頃、たろーにゃんこの夢を見てない…。 o(*- -)o
せめて夢の中で、たろーに会いたいのにな…。 たろーに会いたい…。

たろーにゃんこは 出てこなかったけど、久しぶりに見た夢。
今日の昼の夢。



私は、ポケットの中に 誰かの小さな忘れ物をたくさん持っていた。
で、クラスのみんなの前で、「これは誰の忘れ物? こっちは?」
って聞いてみたけど、誰の忘れ物か分からないものが多かった。

小さな忘れ物は、私が幼い頃、宝物にしてたような
ビーズや、おはじきや…、そんな類のものだった。

場面が変わって、
成績表と卒業アルバムが 一緒になったような冊子をもらった。
あー、私の写真は隠れてるじゃん〜、って思ったら、
私の写真が動いて、写真の中の見える場所に出てきて、
ビデオに撮ったように、私だけが写真の中で動いてた。

20代後半の私と 今の私が、混じったような感じかなぁ。
なかなか、いいじゃん…。
楽しそうに笑ったり、いたずらっぽく笑ったり、
のびのび自由な感じで 快活で、好感持てた。
自分の心の奥が、これまでの自分のことも 今の自分のことも、
認めてくれてるようで、うれしかった。

でも、何から卒業するんだろう…。
卒業する前に、「忘れ物はないですか?」…かぁ。

起きて数時間後、今日は卒業式の日だと気づいた。

PM.23:31

●2006年03月09日(木)


… 最終更新 - 3/12 PM. 10:36 …


『小さな木の実』 について、私が感じること。 続き。

本当は…、きっと少年は、さみしくてたまらない。
そんな少年の心に、どこからか聞こえてくる。
“小さな心に いつでも しあわせな秋は、溢れてる” だろう?…って。

少年が 心の中を振り向いてみると、

パパが居てるというだけで、しあわせに感じた風、
パパが居てるというだけで、しあわせに感じた光、
パパが居てるというだけで、しあわせに感じた空、
パパが居てるというだけで、ただそれだけで、しあわせだった時間、
…そんな しあわせな秋が、本当に溢れていた。

さみしくてたまらないから、だから…、
しあわせな秋が、いつでも心の中に溢れてる。

さみしくてたまらないから…、
木の実のささやく声が 大きく聞こえる。

さみしくてたまらないから…、
“坊や、強く生きるんだ。 この広い世界、おまえのもの”
パパのこの言葉が、より深く心に響き、こだまする。

さみしくてたまらないから…、
小さな手の平の中心=自分の世界の中心に
パパとの日々が結実した木の実を、しっかりと握りしめ、
自分を励ますように、少年は今年も駆けていく。



『小さな木の実』 作詞:海野洋司

小さな手の平に ひとつ   ふるぼけた木の実  握りしめ
小さなあしあとが ひとつ 草原の中を 駆けていく
パパとふたりで拾った 大切な木の実 握りしめ
今年 また秋の丘を 少年はひとり 駆けていく

小さな心に いつでも しあわせな秋は 溢れてる
風と よく晴れた空と あたたかいパパの思い出と
坊や 強く生きるんだ 広いこの世界 おまえのもの
今年 また秋が来ると 木の実はささやく パパの言葉

PM.10:54

●2006年03月06日(月)


… 最終更新 - 3/7 PM. 11:14 …


『小さな木の実』 について、私が感じること。 続き。

“パパと二人で拾った 大切な木の実、握りしめ”
少年が パパと一緒に拾ったのは、「花」 ではなく 「実」
そして、「草の実」 ではなく 「木の実」

少年の心の中で、大切なものが 「実」 を結んでいるからだと思う。
パパと一緒に過ごした日々、パパとの愛情のやり取りの中で
得られた確かな何かが、少年の心の中で、
結実しているから、「実」 なんだと思う。

パパからもらった大切なものを胸に、少年は、草原を駆けていく。
まだまだ パパが恋しい年頃の少年は、きっと さみしさをこらえ、
パパから託された想いを握りしめて、ひとり、草原=世界を駆けていく。

「実」 は 「種」
そして、「木の実」 は、樹になる 「種」

その種は、「おまえの世界を、本当におまえの世界にする」 ための種。
パパと二人で拾った木の実には、パパと一緒に過ごした時間には、
心の栄養が詰まってる。 パパと感じたこと、パパから感じたこと、
パパに感じたこと、…パパとのあたたかい思い出の中には、
パパの言葉、表情、仕草から溢れる想い、願い、愛情が詰まってる。
少年の想い、願い、愛情も詰まってる。

木の実を種に、そして 木の実の栄養を糧にして、
少年は、地に根を張り、幹を太くし、枝葉を天へと拡げ、
いつか豊かに樹を繁らせる=本当のおまえの世界をつくっていく。

木の実から育つ樹は、「実のなる樹」

少年の樹=少年の世界には、
その少年にしか 咲かせられない花が咲き、
その少年にしか 実らせられない成果が実る…。 いつか。

続く。



『小さな木の実』 作詞:海野洋司

小さな手の平に ひとつ   ふるぼけた木の実  握りしめ
小さなあしあとが ひとつ 草原の中を 駆けていく
パパとふたりで拾った 大切な木の実 握りしめ
今年 また秋の丘を 少年はひとり 駆けていく

小さな心に いつでも しあわせな秋は 溢れてる
風と よく晴れた空と あたたかいパパの思い出と
坊や 強く生きるんだ 広いこの世界 おまえのもの
今年 また秋が来ると 木の実はささやく パパの言葉

PM.11:39

●2006年03月02日(木)


… 最終更新 - 3/4 PM. 10:32 …


『小さな木の実』 について、私が感じること。

私は以前、この日記で長々と、

客観的には、一つの世界が存在してる訳だけど、
その世界の認識の仕方は、ひとり一人違うんだよね。
同じ世界に生きてても、捉え方によって、その見え方は違ってくる。
だから、世界を認識する人の数だけ、世界は存在するんだよね。

そして、自分や 自分を取り巻く世界に対する
自分の姿勢、捉え方によって、
世界=現実は、違って見えてくるし、変化するんだよね。

生まれたとき、まずは 親の価値観から出発するけど、
その後、親という他人の価値観・世界観から自由になって、
自分自身の価値観で、物事を見れるようにならないと、
本当の自分の世界には、ならないんだよね。

他人の価値観に依存せず、束縛されず、
自分自身の価値観で、自分や世界を捉えられるようになると、
本当の意味で、自分の人生を生きられるようになるんだよね。

…っていうようなことを 書いてきたけど、



『小さな木の実』 の詞は、それをひと言で 言い表してる。
“坊や、強く生きるんだ。 この広い世界、おまえのもの”
すごいよなぁ。 このひと言に全部、込められてるんだもんなぁ。

この広い世界=おまえが感じている世界は、おまえのものだ。
おまえが、自分で感じたことや 思ったことを大切にし、
自分の目と耳で物事を捉え、考え、行動していくとき、
この世界は、他人の借りものではなく、本当に おまえのものになる。
おまえが、おまえの人生を生きれるようになる。

おまえの心が、おまえの世界をつくっていくんだ。
おまえが、いろんな人から学ぶことは、たくさんある。
いろんな人の感じ方や考え方を知ることは、とても大切なこと。
でも、おまえが、どういうふうに感じ、どういうふうに考え、
どういうふうに行動するかを決めるのは、おまえ自身だ。

決めるだけの力を、人はみな持っているんだ。
おまえも、その力を持っているんだ。
おまえは、おまえの思うように生きるんだ。
そして、おまえの世界を 本当におまえの世界にするんだ。

続く。



『小さな木の実』 作詞:海野洋司

小さな手の平に ひとつ   ふるぼけた木の実  握りしめ
小さなあしあとが ひとつ 草原の中を 駆けていく
パパとふたりで拾った 大切な木の実 握りしめ
今年 また秋の丘を 少年はひとり 駆けていく

小さな心に いつでも しあわせな秋は 溢れてる
風と よく晴れた空と あたたかいパパの思い出と
坊や 強く生きるんだ 広いこの世界 おまえのもの
今年 また秋が来ると 木の実はささやく パパの言葉

PM.11:59

●2006年03月01日(水)

.
… まぼろしの欠片 …


今日は、たろーにゃんこの日。
ちょうど2年。 でも、もっと長かったような気がする。
たろーの居ない辛い日々は、もっと長いような気がする。



子どもの頃から、ここだけ覚えてた歌。
タイトルも覚えてないのに、忘れられなかった歌。
どんな歌なのか 気になってた歌。

“小さな手の平にひとつ 古ぼけた木の実 握りしめ”
“パパと二人で拾った 大切な木の実 握りしめ”
“小年はひとり駆けていく”

先月再び、すごく この歌を知りたくなって、
やっと ネットで調べた。 ネットだと すぐだね。
ネットがなかったら、大変だけど。

1番の残りの歌詞もだけど、特に2番の歌詞を読んで、思わず泣いた。
メロディは覚えてたので、全部歌えた。
始めの1週間くらいは、歌うたびに泣いてた。 泣きながら歌ってた。
10回のうち 8回は泣いてたかな。 たろーのことと重なって。

歌えば歌うほど、すごい歌だなって思う。 深い歌だなって思う。
深い内容を、短く分かりやすい言葉で、しかも、
豊かなイメージを拡げながら表現した歌詞だと思う。

歌詞について想うことは、
長くなるので、明日あたりに書きます。



『小さな木の実』 作詞:海野洋司

小さな手の平に ひとつ ふるぼけた木の実 握りしめ
小さなあしあとが ひとつ 草原の中を 駆けていく
パパとふたりで拾った 大切な木の実 握りしめ
今年 また秋の丘を 少年はひとり 駆けていく

小さな心に いつでも しあわせな秋は 溢れてる
風と よく晴れた空と あたたかいパパの思い出と
坊や 強く生きるんだ 広いこの世界 おまえのもの
今年 また秋が来ると 木の実はささやく パパの言葉

PM.11:38

← まぼろしの欠片 Top Page


WebDiary CGI-LAND