<12月5日>
呼吸法をTVで観て始めた。
<12月17日>
深夜3:00〜4:00頃、サンサメラ開通。
朝、渡りを掃除して戻るときに、
じゅうたんに手をつかない方法にチャレンジして
成功した。
<12月19日>
12月8日ぐらいから漢方お休みして、
「晶三仙」を飲みはじめた。
今、飲んでる薬は、一日に
ワイパックス 50mg × 5錠
レキソタン 1mg × 1.75錠
メイラックス 1mg × 0.8錠
ルボックス 25mg × 1/2錠
<1月3日>
今日の夢の話。
険しい山の頂にいた。
足元の平地はわずかだった。
私は頂にいたけど、同時に西井さんが講義をしている会場にもいた。
ふいに私はよろめいた、というより、
私は山の頂から落ちたいと全く思っていないのに、
別の私がわざとバランスを崩して私を落とそうとして、
落ちるような動作をさせかけた。
慌てた私が必死で体勢を立て直し、落ちるのを免れた。
でも私は、別の私が私の気づかないうちに
私を落とそうとしていたことが、とてもショックだった。
高い頂から落ちそうになった恐怖と
自分で自分を落とそうとしたショックが重なって、こわかった。
しばらくした後、別の私が
私を自ら破滅に向かわせる行動をさせようとして、
私は、あぶない、こわっと思って、踏みとどまれた。
2回も続いてショックだった。
私は、知らん顔をして講義を続ける西井さんに向かって、
ちょっと講義を中断してくれるように頼んだけど、聞いてくれない。
何回頼んでも聞いてくれない。
私はなぜか目の前にいた円地さんに、
私が私を落とそうとしてとてもこわかった、と話をした。
円地さんはいつものようににこやかな顔で、
ただ黙って話を聞いてくれていた。
私は円地さんの肘を持った状態でしがみついていた。
円地さんに話をしていたら、西井さんがやっと気がついて
講義を中断してくれた。
その後は省略。
夢の中の人物は全部自分というから、
西井さんも円地さんも自分ということになる。
西井さんは私の中の理性で、
私を殺そうとした私も、私の中の私で、
円地さんは、私の心に近い私かな。
理性に直接訴えても理性は何も応えてくれない。
私は私の心に辛さを吐き出したら、理性が振り向いた。
私は私の心に辛さを吐き出す必要があるのかもしれない。
辛さを聞いてくれるのは心の方。
その心も、肯定も否定もせずに、
私の辛さをただ受け止めてくれていた。
それだけで十分だった。
それだけで理性が振り向いて、状況が変わった。
まるで、マインドフルネスや瞑想中に勝手に出てくる
自分の感情や思考を自分の中で吐き出して、
それを円地さんになった自分がただ見ている、
そんな感じ?
自分で自分に感情を吐き出して、
それを円地さんになった自分がただ見てるだけ。
<1月4日?>
気が散ったなら、気が散ったなと見ていればいい。
気が散って悔しいと思ったなら、あ、悔しがってるなと見ていればいい。
気が散ってしまった、ダメじゃん、と思ってしまったら、
ダメじゃんと思ってるな、と見ていればいい。
ダメじゃんと思ったらダメじゃん、と思ってしまいがちだけど、
そう思ってしまったなら、
ダメじゃんと思ったらダメじゃんと、思ってしまったな、と見ていればいい。
鏡だよ、鏡。鏡は裁かない。
判断を加えずにそのまま映すだけ。
難しいけど、なかなかできなくても、いつも心に留めておこう。
<1月5日>宵の口
妹と二人で、ありがとうの魔法を試すことにした。
ひとりでは××年ぐらいに試して
一ヶ月ぐらいで世界が一変した経験があるけど、
何で中断したのか覚えてない。
状況が行き詰って来たので、二人で一緒に試すことにした。
二人で力を合わせたら、この状況でも、
もしかしたら魔法が起きるかもしれない。
<1月9日>
雨宮修平。
自分で自分を追い詰めてる。
自分で自分を追い立ててる。
「カイくんは自由でいいなぁ」
雨宮の心は不自由。思い詰めるタイプ。
私も本当に不自由なのは心。
できないことだらけ、生活もめっちゃ不自由だけど、
それ以上に不自由なのは心。
思い詰めるクセから、どうやったら自由になれるんだろう。
<1月20日>
「心の奥のどこかで、ほんのかすかでも、
大丈夫という気がしたら、絶対大丈夫」
「最初が正解」
っていう、35の鉄則の本の中の言葉の
実践の練習のため、ほぼ毎日、
何時間も延々と掃除を続けてる。
そう思わないと、掃除してる意味がない。
練習のために掃除してるんだと思わないと
やってられないし、エスカレートするし、
練習したら、ほんの少しずつ不安に持ちこたえながら、
進んでいけるようになっていくような気がする。
強迫の言いなりなら、生きている意味がない。
(以下抜粋)
<1月22日>
呼吸に委ねる=自分を信用する
ってことかなぁ。
とちゅー
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